対話は“講義”ではない(移行済)
「~然とした」という表現は、「いかにも~のような」
という意味です。
たとえば「学者然とした」といえば、「いかにも学者の
ような」ということになるわけです。
ところで学者、とりわけ教壇に立つ学者の仕事は、
いうまでもなく学生を教えることです。
その位置関係には“教える側”と“教えられる側”
という、厳然たる区分けがあります。
ですからそれが身についていると、通常の対話に
おいても無意識のうちに、教える側の位置に立って
話すことになったりするものです。
つまり一方的に、多少なりとも「上から目線で話す」
というかたちになってしまいがちだということです。
しかしそんな場合、対話相手は教えられる側では
ないのですから、いい気分はしないはずです。
「あなたに、教え、諭される筋合いはない」と
思われても仕方がないということ。
また、理詰めの語り口も学者の特徴かもしれません。
それが講義であったとしたら理詰めの展開も当然
でしょうが、日常の対話で同じようなことを
されたら、相手が窮屈に感じたとしても不思議は
ないわけです。
ユーモアやウィット、冗談や軽口など、“あそび”
がない対話ほど無味乾燥でおもしろみのないものは
ない。
そして最近は笑いを誘ったり、どっと沸かせたり
する巧みな講義の話術を心得ている学者も増えて
います。
そんな時代だからこそ、「学者然」とした方々も、
そろそろ話し方を変えてみる頃合いではないかと
思います。
参考図書:『一日一戒 良寛さん──清々しい人に
なる90の教え』
(枡野俊明 著、自由国民社)
最後までお読みいただきありがとうございました。
という意味です。
たとえば「学者然とした」といえば、「いかにも学者の
ような」ということになるわけです。
ところで学者、とりわけ教壇に立つ学者の仕事は、
いうまでもなく学生を教えることです。
その位置関係には“教える側”と“教えられる側”
という、厳然たる区分けがあります。
ですからそれが身についていると、通常の対話に
おいても無意識のうちに、教える側の位置に立って
話すことになったりするものです。
つまり一方的に、多少なりとも「上から目線で話す」
というかたちになってしまいがちだということです。
しかしそんな場合、対話相手は教えられる側では
ないのですから、いい気分はしないはずです。
「あなたに、教え、諭される筋合いはない」と
思われても仕方がないということ。
また、理詰めの語り口も学者の特徴かもしれません。
それが講義であったとしたら理詰めの展開も当然
でしょうが、日常の対話で同じようなことを
されたら、相手が窮屈に感じたとしても不思議は
ないわけです。
ユーモアやウィット、冗談や軽口など、“あそび”
がない対話ほど無味乾燥でおもしろみのないものは
ない。
そして最近は笑いを誘ったり、どっと沸かせたり
する巧みな講義の話術を心得ている学者も増えて
います。
そんな時代だからこそ、「学者然」とした方々も、
そろそろ話し方を変えてみる頃合いではないかと
思います。
参考図書:『一日一戒 良寛さん──清々しい人に
なる90の教え』
(枡野俊明 著、自由国民社)
最後までお読みいただきありがとうございました。
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