大悟していないのに悟ったかのような話ぶりは鼻につく(移行済み)

大悟とは、きわめて高い心の境地に達しているという
ことです。


そして、良寛さんは間違いなくその境地におられた方。


しかし悟りくささからはもっとも遠くで、清貧のうち
に、泰然とかまえ、恬淡(てんたん)として生きた
禅僧だったそうです。


そんな良寛さんに強く戒められそうなのが、「自分は
いかにもものごとの本質、真髄がわかっている」
いった話し方をする人。


たとえば「人生なんて、所詮、一幕の茶番劇だ」という
ようなことばは、ニヒル、シニカルだと感じられる
かもしれません。


とはいえ、こんな台詞を人生半ばの若い人が吐いたと
したら、かなり鼻につくはずです。


少なくとも、そんな斜に構えた態度が好かれることは
ないでしょう。



ここで、「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速の
ことは 夢のまた夢」という秀吉の辞世の句。


人生の終焉を眼前に見据えながら詠んだからこそ、
悟りくささを感じさせず、儚さも素直に伝わってくる
わけです。


「人生なんて~」というようなことばとは明らかに違う
わけです。


そもそも「~なんて」といういいかたは、「恋愛なんて」
「結婚なんて」「友情なんて」というように、総じて
「悟りくさき話」につながるもの。


ちなみに禅の世界には、さも悟っているぞといわん
ばかりの言動のことを言い表す「悟臭」ということばが
あるといいますが、それは禅がもっとも嫌うものです。


そうしたことを踏まえたうえで、「~なんて」を封じて
みれば、それだけで悟りくささは大幅に減るものです。



参考図書:『一日一戒 良寛さん──清々しい人に
      なる90の教え』
     (枡野俊明 著、自由国民社)



最後までお読みいただきありがとうございました。

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