茶人でもないのに茶の湯に精通しているような話し方は…。(移行済み)

良寛さんの時代において、茶人は文化人の象徴という
べき存在。


そのため、茶人にかぶれた話し方をする人があとを
絶たなかったのかもしれないと分析します。


たとえば「お茶のお点前というものは~」「お茶室の
誂えは~」「茶道具というものは~」など。


つまりは茶の湯に精通していることを示し、自分の
ステイタスを高めようと考えたのでしょう。


早い話、自分はひとかどの人物であると見られた
かったということ。


しかし、侘び茶を完成させた茶聖・千利休はこう
言っているそうです。


「茶の湯とは、ただ茶をわかし、茶を点てて、飲む
ばかりなることと、知るべし」



このシンプルさが茶の湯の奥義であり、
そのシンプルさをどこまでも極めていくことは
自己研鑽の道。


そして自分の生き方の模索である。利休はそう
訴えているように思われます。


茶の湯の知識をひけらかすこととは、まったく
相容れない姿勢がそこにあるわけです。


そしてそれは、なにごとにおいても同じ。


いまの世の中でも、「(絵画の)印象派というもの
はね~」「バッハの音楽の本質は~」「フレンチ
(フランス料理)の命はソースにあって~」などと、
いかにも自分が通であるかのように話す人がいます。


しかし対象がなんであれ、自分が惹かれるもの、
好きなことがあったら、ただそれを楽しむことに
一生懸命であればいいわけです。


むしろ、余計なことは語らないほうがずっと美しい
ものです。


本物の通人は、概して寡黙なものだと思います。



参考図書:『一日一戒 良寛さん──清々しい人に
      なる90の教え』
     (枡野俊明 著、自由国民社)



最後までお読みいただきありがとうございました。

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